女流作家七度柚希の顔は、薄暗いアパートの一室でノートパソコンの青白い光に照らされていた。彼女の指はキーボードの上でためらいがちに動き、画面には白い原稿用紙が広がっているものの、文字はほとんど進んでいない。締め切りが迫る中、柚希の頭は新しい小説のネタを探すことでいっぱいだった。彼女は新進気鋭の女流作家として注目を集めていたが、その分、読者の期待は重くのしかかっていた。次の作品は、誰もが息をのむような刺激的で、かつ心を掴むものでなければならない。
柚希はコーヒーを一口すすり、インターネットのニュースサイトをスクロールしていた。政治、経済、芸能――どれもピンとこない。そんなとき、ふと目に飛び込んできた見出しに彼女の手が止まった。「ブライダルエステ経営者、猥褻容疑で逮捕」。記事の内容は曖昧で、具体的な手口は書かれていなかったが、逮捕に至るほどの事件となれば、よほど悪質な行為があったに違いない。柚希の作家としての勘が疼いた。これは、ただのニュースではない。小説の題材として、十分に掘り下げる価値がある。
彼女はすぐに検索エンジンに「ブライダルエステ」と打ち込み、情報を漁り始めた。無数の広告や口コミが並ぶ中、ひときわ異彩を放つサイトが目に留まった。歌舞伎町に位置する「ブライダルエステ・ルミエール」。ウェブサイトは派手なピンクとゴールドで装飾され、「結婚を控えた女性のための特別な美と癒し」を謳っていた。しかし、歌舞伎町という立地はどう考えても怪しい。繁華街の雑踏に紛れたその店は、柚希の想像力を刺激した。詐欺、誘惑、裏の顔――どんな物語が隠れているのだろうか。
「これは取材のチャンスだ」と、柚希は目を輝かせた。彼女は単なる机上の空想ではなく、実際に足を運び、生の体験を小説に落とし込むことを信条としていた。歌舞伎町のエステなら、きっと何か面白いネタが手に入る。危険かもしれないという考えが一瞬頭をよぎったが、好奇心がそれを押し切った。柚希は店の電話番号をメモし、早速予約を入れることにした。
電話の向こうから聞こえてきた女性の声は、驚くほど丁寧で事務的だった。「ご結婚おめでとうございます。挙式はいつ頃のご予定ですか？」と尋ねられ、柚希は咄嗟に「来年の春頃です」と適当に答えた。実際には結婚の予定などなかったが、取材のためには多少の嘘も必要だ。予約は翌日の夕方に決まり、柚希は電話を切った後、クローゼットの前に立った。
「結婚前の女性なら、どんな服がいいかな……」と呟きながら、彼女は服を選び始めた。あまり地味だと店員に怪しまれるかもしれないし、派手すぎると目立ってしまう。結局、彼女は白いレースのブラウスと、膝上のフレアミニスカートを選んだ。清楚でありながら、若々しさと女性らしさをアピールできる組み合わせだ。鏡の前でくるりと回り、満足げに頷いた。「これなら、ブライダルエステの客として自然だろう」
翌日、柚希は新宿の喧騒を抜け、歌舞伎町の雑居ビルが立ち並ぶ一角に足を踏み入れた。夕暮れ時のネオンがチカチカと瞬き、通りを歩く人々のざわめきが耳に響く。彼女はスマホで住所を確認しながら、目的のビルを探した。やがて、けばけばしいピンクの看板が目に入った。「ブライダルエステ・ルミエール」。看板の文字は安っぽいフォントで書かれ、どこか胡散臭さが漂っている。柚希の胸に、期待と不安が混じった高揚感が広がった。
ビルのエレベーターは狭く、どこかカビ臭い。4階で降りると、ガラス張りのドアに店のロゴが貼られていた。ドアを押して中に入ると、受付には若い女性が立っていた。彼女は作り物の笑顔で「いらっしゃいませ、ご予約のお客様でしょうか？」と尋ねてきた。柚希は名を告げ、促されるまま受付のカウンターでアンケート用紙を渡された。
アンケートは、名前や連絡先、挙式の日取り、希望する施術内容などを尋ねるものだった。柚希は適当にでっち上げた情報を書き込みながら、内心で苦笑した。「挙式の日取り？ そんなもの、あるわけないのに」。一通り書き終えると、受付の女性が「こちらでお預かりいたします。それでは、施術の準備をいたしますので、こちらで着替えてお待ちください」と、紙製の下着を手渡してきた。
柚希は一瞬、眉をひそめた。紙製の下着？ マッサージにそんなものが必要だなんて、聞いたことがない。薄っぺらい素材は、まるで使い捨てのナプキンのような質感で、透けそうなほど頼りなかった。「これ、着るんですか？」と尋ねると、受付の女性はにっこり笑って「はい、施術の際はこちらをご着用いただいております。衛生面を考慮したものですので、ご安心ください」と答えた。
「衛生面ねえ……」と、柚希は心の中でつぶやいた。どう考えても怪しい。だが、取材のためには実際に体験しなければ意味がない。彼女は覚悟を決め、案内された着替え室に入った。狭い部屋には鏡と小さなロッカーが置かれているだけだ。柚希は服を脱ぎ、紙の下着に着替えた。薄い素材が肌に張り付き、妙に心許ない感覚が広がる。鏡に映る自分の姿を見て、彼女は小さくため息をついた。「小説のためよ、柚希。頑張りなさい」
着替えを終え、受付に戻ると、女性が「それでは、施術室にご案内いたします」と微笑んだ。柚希は彼女の後に続き、廊下の奥へと進んだ。ドアの向こうには、どんな世界が待っているのか。作家としての好奇心が、彼女の心を強く突き動かしていた。だが同時に、どこかで小さな警告の声が囁いていた――「気をつけなさい。何か、普通じゃないことが起こるかもしれないよ」。
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